2007年11月29日木曜日

抽象絵画

を描いてる人の部屋に行かせてもらった。人の部屋に入るのはすごい久しぶりな気がする。

鉛筆で、ただ「波」が描かれている絵画の実物は素敵だと思う。
現代美術の色々な理論を学んできたけどすごく積極的に批評的に関わってはこなかった人間としては、それが何であるかは簡単には断言できないけど、それが何でないかは分かる。
あれは、鉛筆でしか表現できない、言葉では表現できない「何か」じゃないんじゃないか?そういう絶対音楽みたいなもんじゃないけど、(絶対音楽のように)言葉では表現できない「何か」なので、色々なものとして解釈の言葉を与えることができるもんなんだろう。
だからあの絵画に関する解釈は、基本的には、解釈者が読み取りたいものなんだろう。でも「解釈者が読み取りたいもの」そのままのわけもなく、色々な影響がもたらされる。「魅力」の一つはそれだろう。あの絵画は、それを見る人が好きな方向に見ることができるけど、その方向性は、必ず、少し曲げられる。何と言っても、描かれているのは、鉛筆で細密に描かれた「波」なのだから。
そういうことが可能なのは、「波」が、ひたすら細密に描かれているからかもしれん。どこまでも精密に描かれていれば良いわけでもない。フォルマリスチィックなことが肝心なわけでもないし。実物とは不思議なもんだ。

○1)いわゆるアート・ワールドな画廊と2)美術史学(とか芸術学)
1)に属している人にとって、2)はあまり関係がないんだと思う。1)は1)独特のメカニズムで動けば良いのであって、何かそのメカニズムに役立つならば2)を使えば良いわけで、「現在」を考える時に「歴史」を考える必要は、常に必要なわけではないし。
2)には、1)にはあまり関わらないのなら、人文学で歴史学としての存在意義はあると思う。現状では、1)の「上層」(?国立美術館とか?)は2)から供給されていることを忘れておけば。
まあ僕には関係ないのだけど、1)と2)が、少しだけ重なる部分もあるけど、かなり別のメカニズムで動いていること、それぞれの領域に属している人同士の「交流」はあんまりなされていないこと、の意味はなんだろう、と疑問に思っておこうと思った。

○「面白いこと」だけを見つける才能と、対立する意見と折り合うこと
ひたすら話し続けることもけっこうな才能だと思うけど、オリジナリティとは、他との比較項目を減らすことによって獲得される程度のものであることが多いと思う(これは「オリジナリティの起源」といった近代の問い直し云々という学的問題圏とは関係のない僕の見解)。
ま、もうどうでもいいか。


妻木良三(つまき りょうぞう) 画家 洋画 [Artis-アルティス]
妻木良三
妻木良三
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もらったポストカードの行方が分からなくなった(11/30/2007)。なくしてはいないので、どっかにあるはず。たぶん色々な葉書をまとめて入れてある袋のどこかにあるはず。

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