David Tudor plays Cage & Tudor. と David Tudor, Music for Piano (Edition RZ :ed. RZ 1018-19)
David Tudor Plays Cage and Tudor
David Tudor
David Tudor - Music for Piano
前者は、CageのMusic for PianoとチュードアのNeural Synthesis。ライナーノートはJohn Holzaepfel。たんなる演奏家でないTudor像を描き出そうとする文章がライナーノートに登場してきた。
後者は基本的にアンソロジー的な代物で、入れ物はおしゃれだけど、録音は50年代から60年代前半のもの。HMV onlineで買ったもののはず。
なぜかどっちもドイツのレーベル。
TudorのNeural Synthesisがあんましエレクトロニクスな感じじゃなかった。
Music for Pianoを二枚続けて数ヴァージョン聴いたわけだけど、前者のCDは1982年録音で、後者のCDは50年代の録音。違いはあんまり分からない。
これはConcerto for Piano and Orchestraの一部としてカタログ化されていて、つまり、ケージの図形楽譜の集大成作品群の一部としてカタログ化されているもので、Tudorには彼が興味を示す状況を作ってやれば良いんだ、と言ったケージの言葉(初出を忘れた)がぴたりとあてはまるようなTudorをひきたてる作品群。こういうのは「全体」と「部分」との関係性(50年代以前のケージの使う意味での「構造」)を考えるよりも、その瞬間瞬間(というか、ある程度のまとまりとしてのフレーズ毎)の「ピアノの表現力」(音響の面白さ)を楽しめば良いと思うようになったので、面白かった。
博士論文終わったら、現代音楽からは距離をとっていこうと思ってたけど、なんだか「現代音楽」にはまり始めた頃の感じ。でも「マニア」にはならんぞ、とだけ決意しておく。
一人の作曲家を深く深く掘り下げるタイプの研究はしないということだけ決めとこう。
でもだからといって、今まで「学んできたこと」を捨ててはいけない。今までの蓄積を捨てる必要はない。この先のほぼ全てを決定する物事なのだから性急に勢いで決めてはいけないし(そういう決め方も良いと思うけど、いけないと言える時にはいけないと思う)、その前に博士論文を進めなくてはいけない。
過去の自分を見直して、よくもまあこんな文章書きながら「論文」書いてこれたなあ、と思った。確実に成長はしてるけど、今、僕が知ってるどんな院生よりもひどい文章を書いてる気がする。
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