藤本由紀夫展 +/-
まずはメモ。
people_vol.70 藤本由紀夫
図録に、肝心のBossのスピーカーを使った作品の写真とか記述が全くない。
サエキケンゾウのブログとかしか見つからないのだけど、なんとかならんもんかなあ。
プラスとマイナスだから、レコードの溝を削った(?ほんとに削ったのかどうかは知らないけど)ビートルズのレコード(プラスとマイナスだけど、CDじゃなくてレコード使わないと視覚的にはプラスとかマイナスを提示できないのだと思う。)も展示してあったけど、圧巻というか、メインというか、ほぼ唯一の展示が、壁一面にBOSEのスピーカーを213台並べてビートルズの曲、213曲を一斉に流すインスタレーション。この作品名が『+/-(プラス/マイナス)』というらしい。
隣の部屋とか数十メートル離れた場所からは、ごー、とか、うー、とかいうホワイトノイズにしか聞こえなくて、でも近づいていくと、数メートルくらいから楽器の音らしいものが聞こえてくることが分かって、そんでスピーカーの目の前に立つと、どうやらそれぞれのスピーカーからはビートルズの曲が再生されているらしいことが分かって、スピーカーの前に耳を寄せて初めてそれぞれのスピーカーから再生されているビートルズの曲が何か分かる、というインスタレーション。
まだどの曲がどれか分かるけど、すぐには曲名が出てこないのもあった。どうやら僕は、『ホワイト・アルバム』の曲名がかなりあやしいらしい。
デジタルで再生源を一つか二つにまとめてしまうとこういう空間の中で数メートル毎に聞こえてくる音の様相が刻々と変化するインスタレーションは成立しないと思うので、BOSEのスピーカーを213台使える状況を成立させてからそれ以外の「プラスとマイナス」にまつわるエトセトラな理屈を作っていけて良かったのかもしれん、という気がする。
色々馬鹿馬鹿しいとも思うけど、こういう大掛かりなものは、こういう大掛かりなことをしないと経験できないことも確かなので。美術館はコスト・パフォーマンスを考えてはいけない気もする。
なんで画像がないねん。
日本の美術館はたいてい館内撮影全面禁止なのはなんの法律のせいだろう?
思い出してメモしてたらビートルズききたくなってきた。
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次に飲み屋で使えそうな与太話のメモ。
移転後の国立国際に初めて行って、美術館格差のようなものを思った。
藤本由紀夫の展覧会としては、西宮市大谷記念美術館のもののほうが絶対に「面白い」し楽しい。
でもあのスピーカー作品は、スピーカー借りるだけで大変だし、設置スペースの問題もあるし、たぶん国立の美術館じゃないとできない。
他の美術館でできることはざっくり切り捨てて理屈っぽいこんせぷちゅさるでアートな作品に集中していて、なので国立国際美術館の藤本由紀夫展は、西宮市大谷記念美術館のaudio picnicのように、子供連れの家族も楽しめるような展覧会じゃなくて、まさしく現代美術の展覧会でしかなかった。
なので、国立国際美術館(具体的にその主体が「誰」かは知らない)は、「ハイ・アート」の身振りを維持することを決めたのか?と思った。
ハイ・アートな身振りの再生産か自己模倣かカリカチュアかは分からない。
きっと、最近の「ハイ・アート」は、たいしゅーを受け入れるという身振りを提示しないといけないので、ロシアのお宝の展覧会もしないといけないし、中途半端ながらもミュージアム・ショップを充実させているように見せないといけないし、子供たちをガイドするために人も雇わないといけない(常勤職員じゃないんだろうと思うけど)。
自己模倣を反復し始めたハイ・アートは「反抗の対象としてのエスタブリッシュメント」にしかならないと思うけど、「体制と反抗」という図式というのは古臭い陳腐な物語に過ぎないと思う。
だから、陳腐な物語を避けることが身上だったはずのモダン・ハイ・アートの牙城としての国立国際は、それが陳腐な物語に過ぎないことくらい自覚して、その陳腐な物語を少しずつずらしていく仕掛けをどこかに施していってくれるはずに違いない
だからきっとそのうち、公立の美術館では、その陳腐な物語の反復を拒否してハイ・アートの牙城を演じる心意気を示し、「外部」へと開かれていこうとしているという態度を示すためにも、作品に、各作品の購入価格と現在の価格の値札を一緒に展示するようになるに違いない。
じゃないと、自分が権威的な存在であることを自覚できずに狭い世界に自閉していく、全共闘時代の大学への反抗を自慢する大学教授みたいじゃないか。
という外野の意見。
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