これは、関大近くの、ライブハウスらしい。
ジョン・ケージの回は、さすがに、ほとんどメモを見なくていい。
けど、ゆっくり説明しないといけないので、絶対に二回かかる。立命館でも二回かけること。ミニマルのとこ削る?近大の学生にわりいことしたなあ。
癒しの音楽に関する音楽社会学の研究事例を紹介しているうちに、癒しの音楽、っつうか、癒しってそもそもなんや?という疑問が頭のなかをぐるぐる回り出して、中途半端なことになってしまった。美学的問題意識を避ける問題意識に飽き足らなくなってしまっているらしい。
とりあえず、この回はもう封印。人の顔と名前をくっつけていくこと。来週休講だけど、再来週どうしよう(ワールド・ミュージックの話をするつもりでいたので、それは封印したので、何も準備できていない)。
後期どうしよう。あの随筆集(
日本の名随筆 (25))でも読もっかなー。
それとも、テーマ毎に幾つかの日本語文献読んだりしよっかな。でも、それ面白いかな。
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カトラーの議論(『ファイル・アンダー・ポピュラー』所収の「音楽形式の必然性と選択」)は、1.民俗音楽 - 生体的記憶, 2.「クラシック」音楽 - 記譜, 3.ポピュラー音楽 - 録音 という三分類が明快で分かりやすいと思っていたけど、「音楽の生産 - 流通 - 消費」の局面の中で、基本的には「生産」の局面にしか言及していないので、注意。
カトラーの左翼的な視点(結局のところ、カトラーにとって「正しい」ポピュラー音楽=「録音」を通じた集団作業によって生産され、資本主義社会の外側に生み出される音楽 こそが標準だ、とするような、エリート主義的ポピュリズムの再生産とでも言えるような視点)は、歴史的記述とか、その「音楽のあり方」に関する分析のためのツールとしてはそんなに使えないけど、分析ツールの一つとしては使えるだろう、と思っていたけど、注意。
とすると、やっぱりアタリ『ノイズ』を参照しないといけないかな?音楽の生産-流通-受容の各局面における変化については、もっと明快に語られて然るべきだと思う。じゃないと、いつまでも、楽譜に基づく音楽からレコードに基づく音楽への変化がまるで「新しい事態」であるかのようだ。
うーむ。
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メモ:カトラーのケージ相対化
"But if, suddenly, all sound is ``music," then by definition, there can be no such thing as sound that is not music. The word music becomes meaningless, or rather it means ``sound." But ``sound" already means that. And when the word ``music" has been long minted and nurtured to refer to a particular activity in respect of sound -- namely its conscious and deliberate organization within a definite aesthetic and tradition -- I can see no convincing argument at this late stage for throwing these useful limitations into the dustbin..." (Chris Cutler, ``Editorial Afterword," R[e-]
Records Quarterly, Vol.2, No.3 (London:1988).)
Lander, Dan. "Introduction to Sound By Artists" (SoundCultureのwebsiteにある。たしかubu.comにもある。)より
:僕はケージ信奉家ではないので、「アヴァンギャルド音楽の戦略」以外に、ケージのレトリック(もしくはtrope)も単純化してまとめておくこと。