ノイズレス 鈴木昭男+ロルフ・ユリウス
ノイズレス 鈴木昭男+ロルフ・ユリウス | 京都国立近代美術
最初のシンポジウムについて:
あそこに来てた人は、(僕も含めて)何を求めてるんだ?と思った。
学部生時代に実際に点音の経験をする、というのは面白い経験だろうと思うけど。
午後六時からのパフォーマンスについて:
ああいうのはパフォーマンスそのものよりパフォーマンスを見入ってる(聴き入ってる)人を見てるほうが面白い。ロルフ・ユリウスは、iPod(三台)をミキサーにつなげて操作してるだけで、バーナード・ギュンターを思い出す。あの人は、HDレコーダーのフェーダー(一つだけを)を、20-30分かけて、指一本で押しあげただけだった。
鈴木昭男のアナラポスとDe Koolmnes(この楽器の名前を思い出すためにGoogleデスクトップで検索したけどうまくされなかったので、Googleデスクトップは信用し切らないこと)の演奏は面白かった。
ロルフ・ユリウスや鈴木昭男が出すような音は、僕にとっては何よりもまず「普段は経験できない音なので」楽しい。音を経験する時、視覚がどうなっているか、「聴く」という行為は聴覚だけではなく視覚も含まれているのではないか云々の話はともかく、ああいう音をきく経験は「稀少なので」面白かった。でも、あんなに真剣につらい姿勢を維持しながら「鑑賞」するものなのかな?
けっこう音響効果が「良い」場所なので、近代美術館のホールで「普通のクラシックな音楽」を聴くのは、楽しいと思う。天井高いけど変なフィードバックとかなさそうだったし。
二人の作品について:
リチャード・ロングがどうしたこうしたという話をしてたけど、ロルフ・ユリウスが自分の制作の出発点として「石の中にある音を聴きたい」ということについて語っていた(ドイツ語なので通訳さんの声をきいてたのだけど)のが印象的。そういう欲望の出現を可能とする条件は何だろ。レコードへの音の記録や磁気テープによる音響録音の普遍化とか、そういうことだと思うけど、確定できるかな?
甲斐説宗という人の《アナラポスのためのインタラクティビティ》(1977)という作品を全く知らなかったので、良かった。それを知らずに鈴木昭男の創作楽器のジレンマに関する文章を論文につけなくて良かった。
創作楽器としてアナラポスを演奏するのと、楽器としてアナラポスのために作曲するのとではものすごく違うと思うのだけど、楽器としてのアナラポスのために作曲された作品を楽譜を見ながらアナラポスを作った当の本人である鈴木昭男が演奏する、というのはどういう気分なのか知りたい。これ、なんとかならんもんかなあ。
ものすごくたくさんの人がいて、パフォーマンスがない時も二人の作品を見るために毎日100人くらい来るらしく、こうのさんがものすごく不思議がってて、桜で半分としても云々、といってたけど、帰る時、桜は半分以上の理由かもしれん、と思った。
今日は、先輩面しつつ、後輩面もした。ここ二年ほどの経緯を簡潔にまとめると
「帰国してます。最近結婚しました。」
で終わる。人は人にあんまり興味ないことが多いので、これはこれでいいまとめじゃないだろうか、と自画自賛したのであった。
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今日のちょっとした発見
「名曲解説全集」のアイヴスの「三つの歌曲」の解説は、なぜかアーネスト・サトウが書いている。
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