2007年6月27日水曜日

塩見みえこメディア・オペラ第三弾「フルクサス裁判」

なんか画像のアップロードがおかしい。

5/12/2001に国立国際美術館地下で行われたもの。
学生に貰った。
画像が小さいので注意。
第一弾はジーベックのか?じゃあ第二弾ってどれだろ?

ラ・モンテ・ヤングの《1960 #5》があった。
6:25-7:30あたり。
ばっかばかしー。

「アート・ワールド」に参入することによってのみ帯びることが可能な「アウラ」というものがあることを如実に示してくれている気がする。
とすると、ここでのパフォーマンスによって提示される「フルクサス」は、デュシャン以降の「アート」でしかなく、また、その「再演」は、『In the shadow of Motown』のような、「歴史構築、伝統構築」のためのもの、という意味合いしかないのではなかろうか、とも思う。

と言っても、「こういう音、パフォーマンス」を見る機会は「フルクサスのパフォーマンス、イベントの再演」しかないかもしれないので、そうとも限らんか、という気もしてきたけど。

物事は否定的に見るよりは肯定的に解釈したほうが良いと思うけど、そこで何かが抑圧されているならそれは意識しておかないといけないと思う。し、そこで何かが抑圧されているかどうかという判断は、解釈する側の解釈のスタンスによって変化するものであるなら、解釈者は自らの姿勢の構造を意識しておかなければいけない、とも思う。
という覚書。




..《コンポジション1960 第五番》(1960)
1.
「一匹(あるいは任意の数の)蝶を演奏会場に放ちなさい。
作品が終わる時、蝶が外に飛んで行けるようにしておきなさい。
作品はどのような長さでも良いが、もし無限に時間が使えるなら、蝶が放たれる前にドアと窓を開けておき、蝶が出て行った時に作品が終わったと考えることも可能である。」

2.
ラ・モンテ・ヤングの言葉
「…私は蝶が音を発していると確かに感じる。蝶は羽ばたくことによってだけではなく、身体が機能することによって音を発しているのだ。そして、音がどの程度大きいとか柔らかいとかを、音が音楽の領域に導入される前に決めようとするのでない限り、バタフライ・ピースはファイア・ピースと同じくらいに音楽なのだ、と。・・・誰か、あるいは何かが音を聴く必要があるべきだということは、自分には全く必要でないように思えるし、音は音自身のために存在するだけで十分だ。…」

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